無題

無題

 

星野優騎

 

 

夏のはじめの夜である。少年の両親と兄はそれぞれの部屋で、あたかも獲物を捕えた肉食動物のかたく閉じられた口のように、彼らの厚ぼったい瞼を閉じてじっと眠りの兆候が訪れるのを待っている。彼らは、彼ら一人一人の足にしっかりと絡みつく鍵つきの足かせを外すことが許される貴重な数時間を、できることなら平穏に悪夢など見ずにやり過ごしてしまいたいと、彼らの眠気であやふやな頭をそのような淡い期待の潮で満たしている。午前一時・・。
少年の部屋、その狭くじめじめした暗渠さながらの区画には、大時代なスピーカー、少年の汗がしっかりと染みついて嫌なにおいをたてるベッド、少年の勉強机とその上に置かれたラジオ、その他必要最小限の家具がいずれ来るはずの終末の時を行儀よく待ち続ける敬虔なキリスト教徒みたいに、それぞれの定められた場所にちんまりと収まっている。
「馬鹿!ああ、この番組のパーソナリティは、今日もまた俺の手紙を読んではくれなかった・・。あいつはいつだって女からの手紙ばかりを読みやがる!そのことに気が付いた俺たち男性リスナーが、俺たち独自の欺瞞のラジオネームを次々と開発して、女どもからの手紙を読み上げるふりをしながら実際には字面の向こう側に閃く女どものあいつに向けられた笑顔を一瞥しようと必死のラジオパーソナリティを騙そうと試みてきたのだが、あいつはそれらをすべて見破ってしまう、やつは人間界のシェパードなん だ!」
 少年は、偽物の皮がはられただけの丸椅子から立ち上がり、あたかも彼を落胆させた小太りのラジオパーソナリティの首根っこと、彼の手元にあるラジオ機器とを同一視するかのように、ラジオ機器のアンテナめがけてチョップを食らわせた。彼は、その一撃が力道山のそれにも劣らぬプロ仕様であることを信じているわけだった。しかし、アンテナは少年を嘲弄するように僅かに揺れ動いただけで、彼のチョップが力道山はもとよりカマキリのそれよりも劣っていることを如実に物語っていた‥。
少年は懲りずに暫くの間、暗闇の中を無益なジャブに興じていたが、彼がアンテナを打つ、ぱちぱち、という目障りな音に目を覚ましてしまった彼の兄が、彼の部屋のドアーを唐突に開けて試合終了のゴングを鳴らした。
「うるさいぞ、お前!こんな夜中に、どうして交尾仲間の見つからない油蝉のように、お前はいつまでも喚き立てている?」
少年は、予想だにしていなかった兄の突然の来訪に驚いて、数秒間彼独自のファイティング・ポーズを保ったまま、彼に向けて蔑むような視線を寄越す兄の黒目の多い目を一瞥した。「あ?」と、兄。「何か、答えたらどうだ、あ?」
少年は自身の身体から力道山の霊が去ってゆくのを感じた。彼は今や、7戦全敗の序ノ口力士という印象を人々に与える、ひ弱な筋肉を持った高校一年生に過ぎなかった。
「兄貴、お、俺は怒っていたのだ!俺は!小太りで好色な顔つきをしたラジオパーソナリティに、俺が一週間かけて書き上げた手紙を、まったく無視されてしまったのだ!あ、兄貴の睡眠の邪魔をしたのは悪かったが、俺の頭は核爆発寸前のアトゥミック・ボムのように、そのラジオDJに対する十全な怒りで一杯だったのだ‥」